※昔(2010年)発行したコピー本「0と1との分岐点」の小説部分再録です。
※9話・最終話ネタバレあり。(花札封印END)
――暗い。
ここは何処だったろうか。
闇の中、不意に覚醒した『其《そ》れ』は、幾度か瞬きを繰り返した。何も見えない。何も聴こえない。
――ああ、そうか。
『其れ』は唐突に合点が言ったように、そう呟いた。
ここは、呪言花札の匣《はこ》の中。四十八枚の花札たちが、この中で眠っている。
ながいながい年月を経て、誰かがこの匣を開ける時まで。
『其れ』は花札の番人。――鬼札――白札と対を成すものだった。
――なら何故、今おれはこうして目を開けてて居るのだろう。
正確に言うならば、『目を開けている』という表現はおかしいだろう。其れはただの黒い札なのだ。しかし、鬼札の意識は、それをヒトの感覚のように表現した。
目を開けているとはいえ、その前にはただ暗闇が見えるばかりで、目を開けているのか、閉じているのかさえ判別はできない。しかし、己が長い眠りから覚醒しているのは確かだった。
このまま目を閉じてしまうのは簡単だ。そうすれば、再び匣が開かれるまで目を覚ますことはないのだろう。
――ずっと、このまま続いてゆくのだろうか。
ズキンと、胸が軋《きし》んだ。
もうずっと昔のようで、つい昨日のように思えるその胸の軋みは、目覚めるたびに徐々にその存在感を増しているように感じていた。
どうして、執行者が死なねばならないのか。何故、『呪言花札』は存在し続けているのか。
今まで気にしていなかった事が、酷く不条理に思えてくるのだ。
「使命だから」と、迷い無く応えた執行者。命が失われるとわかっていて、何故そうも易々と応えることができたのだろうか。
――わからない。
それは、己が『創られたもの』故だからなのだろうか。本当は『心』なんて、花札の己には存在しないのではないか。
それなのに、何故こんなにも苦しくなるのだろう。
『其れ』は再び目を閉じた。先刻と変わらない暗闇が目の前にある。それでも眠らなければと思う。そうすれば、この胸の軋みは忘れてしまえる――眠りについている間だけは。
◇◇◇◇◇
どれくらいの時が経ったのだろうか。
不意に光が目の前に広がった。
――ああ……。
『彼』は、眼前に広がる景色に、感嘆とも嘆息ともつかない溜息を漏らした。
以前目覚めた時とは全く違う風景。四角い建物が、競って空へとのびて行くかのように連なっている。
確かに、地上は滅びへと歩みを進めていた。
それを告げた男は、執行者ではなかった。現世《うつしよ》に散らばった花札の気配をたどる。対にあるはずの白札はまだ眠ったままのようだった。
そして、己の右手には黒い札が握られている。
本来ならひとつであるはずの鬼札から、何故か分かたれてしまった存在は、ヒトの姿を借りてこの現世に立っていた。
男は世界を救うのだという。それには呪言花札の力が必要だと。
その言葉を、彼はどこか冷めた表情で聞いていた。
本当に世界が救えると? 災いをもたらすとされるこの花札が。執行者を、ただ死へと導く為のこの存在が。
呪言花札の歴史はその繰り返し。変える事などできはしないのだ。
そう思っていた。
『七代 千馗』という名の少年と出会うまでは。
***
ふわりと、目の前を赤いものが通り過ぎていった。それに合わせるかのように幼い少女の泣き声が下方から聞こえてくる。その声に反応するかのように、『雉明 零』は咄嗟に手を伸ばしていた。
幸いにも木の枝に引っかかるように浮いていたそれを捕まえるのは、木の上で公園内を見下ろしていた零にとっては容易いことだった。
赤く丸いそれから垂れ下がっている紐を掴むと、三メートルを越える高さの木の上から颯爽と飛び降りた。
人並みはずれたその身のこなしに、泣いていた少女も、それを宥めていた母親も驚きの目で彼を見上げていた。そんな親子に歩み寄った零は、右手に掴んでいた赤い浮遊物――風船――を、少女に差し出した。
「あの……これ」
言葉少なげに差し出されたそれを、少女は嬉しそうに受け取った。しかし母親のほうは、早口に零に礼を告げると、少女を抱いて逃げるようにその場を立ち去った。
「おれは、ヒトらしくなかっただろうか……」
零はポツリと呟いた。
誰も居なくなった木の下で、零は己の両手を見つめた。日本人にしては、少々色白な方かもしれない。しかしその指先は人間そのものだ。
右手に嵌められたグローブだけが、その中で異質ではあるが、人としての見た目に関しては、おかしいところは見当たらない。
グローブの下には零にとって、友人というよりも、もっと特別な感情を持った二人と一緒に受けた『封札師』の証が刻まれていた。『雉明 零』として、はじめて仲間というものを得た。
(――今思えば、この証こそが、雉明零をヒトとして形成しているのかもしれないな)
封札師の仲間である七代と武藤。彼らの存在は己の中でとても大きいものとなっていることを、零は知っている。特に七代とは、話す度に己の中の何かが変わっていくような気がしていた。
それは、『人らしさ』なのだろうか。
(そういえば前は、駅前で人混みを眺めていたら警察に補導されそうになった)
通常、平日に学生服で、しかも長時間そんな場所に立っていたなら誰でも補導されそうなものなのだが、そこまで考えが及ばない零は、それが自分の『異質さ』故なのだと考えているようだった。
「君にも、そう見えているのだろうか――七代」
零は両手を握り締めると、鴉杜學園が建つ方角を見遣った。
「よう、雉明。今日も人間観察?」
放課後、行き交う人ごみをすり抜けてやってきた七代は、近くの花壇のコンクリートブロックに腰を降ろした。「今日は、何か面白い人居た?」
「ああ。今日は、なにやら黒い人が警察に追いかけられていた」
その言葉に、七代は思い当たることがあったのか、苦笑をかえした。そんな七代に、零は問うた。
「七代、おれは君にはどう映っているのだろうか」
「え?」
零の真意を測りかねて、七代は思わず訊き返す。「どう……って?」
「そうだな……たとえば、おれはこの人ごみの中で異質な存在だろうか」
「うーん……」
思いがけない質問に、七代は首をひねった。確かに今まで出会った人たちの中では、零は少し変わっているといえばそうだろう。何せ、木に登って捜し物をしたり、一日中駅前で人間観察。そして、焼きそばパンの存在意義について真剣に悩んだりする位なのだから。
だからといって彼と距離を置きたいということでもない。むしろ、もっと知りたいという想いが強い。
「異質っていう言葉がどういうことを指してるのか、俺にはわからないけど……けどさ、俺にとって雉明は特別な存在だと思う」
「特別?」
「うん。それじゃぁ、答えになってないか」
「いや……少し驚いた。……けれど、何故だか嬉しい」
そう言って、零は微笑んだ。
零にとって、七代の存在はいうまでもなく特別なものだった。しかし、七代にとっての自分が『特別』というのは、いったいどういうことなのだろうか。
零は、目の前に立つ七代の顔をみつめた。同じくらいの背丈なので、顔がちょうど正面にある。顔の左側だけ後ろに流しているその癖のある前髪の下、茶色い瞳が同じように目の前の自分を映し出していた。
「七代……?」
「なぁ、雉明。お前OXASには戻ってこないのか?」
零はあの試験以来、一度も支部からの連絡に応答がないということだった。かくいう七代も、試験終了後すぐにこの町に派遣されたため、OXAS日本支部の場所は知っていても訪ねたことはなかった。時折届く武藤いちるからのメールで、武藤自身は支部を拠点にして活動しているのだろうというのが想像できるくらいだ。
今は七代自身も『呪言花札』のことで手いっぱいである。しかし、花札自体はもう半分以上集まったのだ。花札を全部集め終わるのは、そう遠くないと七代は思っていた。遅くても、今年が終わる頃には全て終わるだろうという予感がある。
零は、伏し目がちに視線を逸らした。
「今は、まだそこへは行けない。おれはやらなければならないことがあるから」
「そっか」
七代は少し残念そうに微笑んだ。その表情に、何故か心が軋む。――なんだろう、これは。
「七代……済まない」
「い、いやっ、いいんだ。……そうだ雉明、この任務が終わったら、武藤も誘ってどこか行こうぜ」
「何処に?」
「場所はどこでもいいんだ。俺たち、あの試験が終わってすぐに任務に入っちまったから、ゆっくりと話す時間なかっただろ? せっかくの仲間なんだから、色々知りたいじゃないか」
「仲間」
零は七代の言葉を繰り返す。
――仲間。
胸のあたりが何故か温かい。七代の言葉は、いつも自分のココロに変化をくれる。
それが不快でない。むしろ安らげるのは、彼が『執行者』だからなのだろうか。
――否。
きっとそうでなくても、七代は自分に変化を与えてくれただろう。現に初めて出会ったあの日、七代は『執行者』ではなかったのだから。
「ああ、そうだな。三人で何処かへ……」
それが叶わないであろう事は、零が一番知っていることだった。この件が片づいていたときは、己は消えているだろう。否、消えていなければならないのだ。――そうでなければ、居なくなるのは彼の方なのだから。
「あっ……と、この後壇たちと探索に行くんだった。じゃあな、雉明!」
零の胸の内を隠した微笑みに、安心したように笑みを返した七代は、携帯を確認すると、手を振ってその場を走り去る。零は、その背中が見えなくなるまでじっと見つめていた。
「無事で、七代」
ただ、今はそう祈ることしかできなかった。
***
「嫌だ」
洞内に、乾いた声が木霊する。
「……何故」
花札を消滅させて欲しいと願った零の言葉に、七代は首を振った。そして、その唇が願いを口にする。
――花札を封印する――と。
それは、執行者である七代の命を必要とするのだ。守りたいと、救いたいと思っていた零にとっては、絶望に等しい。
「きみを、死なせたくない――七代」
言葉を紡ぐ。鬼札から『零《こぼ》』れ落ちてしまった『心』が、彼を死なせたくないと軋む。
それでも、七代は応とは言わなかった。後ろに控えていた彼の友人も、七代を引き止めている。
他に何かないのかと。しかし、今考えうる方策は『花札を消滅させる』か『花札を再び封印する』かの二つしかない。
そして執行者たる彼は、再び花札とその番人が眠りにつくことを望んでいる。――お前を消してしまいたくはない。と、彼は言った。それは七代にとって「自分が死ぬ」ということだというのに。七代にとってこれは『使命』などではないというのに。
「俺、言ったよな」
不意に、明るい声で七代が言う。
「これが終わったら、武藤も誘ってどこかへ行こうって」
それは、いつの約束だったろうか。ほんの少し前だったのに、随分と昔のようにも感じる。
「お前が消えたら、その約束果たせないだろう?」
「しかし、七代……」
その言葉は矛盾している。だって、おれが封印されるということは、きみが『死ぬ』ということなのだから。
「きみが居なくなってしまったら、意味がない」
「じゃあ聞くけど、お前は今までの執行者が本当に死んだのか、確かめたのか?」
「え?」
その言葉に、零は目を見開いた。目の前に佇む少年の目には、尚も力強い光が宿っている。――目を背けたいくらいに。
「眠っちまうお前には、それを確かめることなんてできないだろ? もしかしたら、生きてるかもしれない。……そう信じろよ」
「七……代」
「そう、信じていてくれ。雉明……白も」
――死んだのではないと信じる。
執行者が生き残るなどありえない話だ。だからこそ、加茂の当主は娘の代わりに七代を差し出した。……そう、ありえない。それを信じろというのか、彼は。
「……」
……できるのだろうか、おれに。
傍らの少女姿をした白も、複雑な表情をしていた、だが納得しているようでもあった。……それが、主を信じているということなのだろうか。
「酷いやつだよ、きみは……」
不意に、頬が濡れた。
ずっと胸の奥で軋み続けていたものが、零の目から溢れて伝っている。それが何なのか、彼自身には理解できない。
それを見て、目の前の大切な人は微笑んでいた。その笑顔が霞んで歪む。
促されて差し出した手のひら。それは最早ヒトのそれではない。鬼札の化身としての姿。褐色の指先には鋭い爪が伸びている。
手のひらの上には何の彩もない真っ黒な札――鬼札が置かれている。その手に彼の手が覆うように重なった。人の温もりが、七代の温もりが手のひらから全身に浸透してゆくようだ。
「七代……」
零はもう一度、彼の顔を見つめた。慈しむようなやさしい視線に応えるように、口の端を上げてみる。目の前の七代のように上手く微笑えているだろうか。
零の意識が札と共に匣へと消え行こうとする瞬間、不意に七代の頬にしずくが伝った。
――ああ……。
それは、惜別の溜息。そして、己の目から零れ落ちるしずくは、悲しみの涙だったのだと零は気づいた。
からっぽだった心に、少しずつ積み重ねられてきた悲しみは、七代のやさしさに触れ、涙となって次々と零れ落ちる。
――おやすみ、雉明。
彼の唇が、そう囁いたように見えた瞬間、ぱたりと蓋が閉じられた。
◆◆◆◆◆
再び戻ってきた暗闇のなか、元の札となった『其れ』の意識は、匣の外へと向けられていた。
どんなに凝らしても、声が聞こえて来るわけでもない。何もわからない――無だ。
考えても、もう既に自分の役目は終わってしまった。
それが、満足であるか、そうでないか。そんなものは、もう考える必要もない。終わってしまったのだ、今回『も』。
匣の中に納められてしまった札の身としては、動かす身体もなにもないのだけれど、酷くその身が重く感じた。
――白はもう眠ってしまったのだろうか。
対を成す白札の声は既に聴こえない。また独り取り残された暗闇に、『其れ』はようやく目を閉じる。今度はすぐに眠れるような気がした。
眠ってしまったら、この心の温もりは消えてしまうのだろうか。
――否や――
もし眠りに落ちたとしても、七代と出会って生まれたこの感情は、消えることはない。痛みや悲しみも全部、……そして、彼との約束もすべて、再び目覚める時までこの『心』の中に抱いていよう。
叶わないことだとわかっていても。
次に目覚めた時、君がどんな言葉を掛けてくれるのかを夢想しながら……。
――じゃあ、また。七代。
声に出したつもりはなかったのだが、どこかから「まったく……」と呆れた声が聞こえてきた気がして、『零』は微笑んだ。
-おわり-